always one step forward

送り出されるということ

無事に現職での最終出社日を迎えることができた。

いや、自分にとっては無事も有事もない、淡々とした1平日の業務を終えるつもりだった。自分にとっては区切りの日だけれど、他の人にとっては普通の平日。自己都合で退職する身としては、遠慮とかではなく、淡々と荷物整理を行い、普通の平日のように部屋を去るつもりだった。実際、感情が高まり作業が手につかない、、ということもなく、「あれ、今日が本当に最後だろうか」と昼間あたりに自問するくらいだった。

しかしこの日は、その時間になると、上司がメンバーを集めて、慰労の言葉をいただき、挨拶の機会を与えてくれた。プレゼントまでもらい、みんな集まって見送り‥とまったく予想していなかったはなむけをしてくれて、挨拶の声はちょっと、いやかなり震えてしまっていた。感謝という気持ちしかない。4年弱という期間における貢献の高低は自分では判断できないが、人生の中でもそう何度もない瞬間、送り出されるということはこういうことなのだろうとしみじみと感じた。

業務引き継ぎはしっかり行えた。文書化を全力で行い、打ち合わせを綿密に行った。引き継いだメンバーには別の仕事があり、明らかに追加のタスクなのだけれど、彼の努力とセンスのおかげで滞りなく進んだ。まあ、種々の引っかかりは出てくるかもしれないが、何とかなるだろう。そう思える密度の濃いやりとりだった。

終盤は慣れ親しんだパソコンのデータ整理に費やす。何万通というメールの山を眺め返し(Thunderbirdはこれらの検索性を下げずに管理できるよくできたソフトだ)残しておけそうなメールはグループに分けて圧縮して保存。個人メールはがっさり削除。メールというメディアはおもしろくて、書いたり読んだりするその瞬間は自然にフローとして扱われるけれど、メールクライアントに溜め込まれるといつのまにかストックとしての役割を果たす。「この人からは前回はいつメールが来たっけ」「この人は前にも同じような内容を質問してきたな、という自分の記憶は確かだろうか」という問いに一瞬で答えを出してくれるデータベースになっている。

メール以外のデータも、共有が不要なデータはがっさり削除。「スムーズな情報共有のためには、"探す時間"を最小限に→ドキュメントのありかはなるべく分かりやすく」という日常が染みついていたからか、自身のパソコン内のデータもそれなりにまとまっていた。こういう習慣はいったいどこで身につけたのだろう。自分の部屋は隅々まできれい、という訳ではないけれど、仕事周りの環境、データの置き場はなるべくすっきりするように心がけている。たぶんこれは一生変わらないだろう。

転職しようと思った経緯、転職活動あれこれ、上司への意思通知から最終出社日までの行動と思い、、など書きたいことは実はいくらでもある。それは、このような行動そのものは間違いなく自分と向き合う時間であり、自分を見つめ直す機会でもあったからだ。内省録というか − いや反省点は特にないのだけれど −「このタイミングで自分が何を考えてどう動いてきたか」は書き残しておきたいことがらの一つだ。仔細に語ればおそらくメルマガにできそうなくらいの量だ。とはいえ、事情が事情なだけにクローズドにせねばならなかった。もう少し落ち着いたら書こうと思う。