2014/03/26 「大江戸と洛中~アジアのなかの都市景観~」江戸東京博物館
内覧会の案内をもらえたので参加した。タイトルから感じ取れる"礼儀正しさ"とはやや裏腹に、
- 精緻かつ色鮮やかな日本/世界地図、
- これも精密、都市文化が浮かび上がる都市図、
- 城下町をダイナミックに描いた大型屏風、
などが多く展示され、何というか、スケール感を感じられて面白かった。「歴史という横軸(歴史年表でいうと矢印)」×「南蛮/中韓/日本という空間軸(年表に描かれた文字)」が形作る空間に、地図そのものの(A4版などではない)大きさが輪をかけて、そのスケール感を演出していた。
印象に残った内容を一言で表現すると
やっぱり「地図」だろうか。「古地図」と呼ぶのが失礼なほど質の良い地図が、惜しげもなく展示されている(もしサブタイトルに入ってたら、お客を呼べるし、観た人は満足すると思います:あくまで主観)
あとは写真を
芸術的に深いことは語れませんが、雰囲気は伝わると思うので写真を:
- このページの写真:内覧会向けに特別に撮影許可されたものです
- 展示会情報:こちらの博物館公式サイトをどうぞ。一通り目を通してから訪れると理解が深まると思います
- いくつか展示替えがあり、期間後半には別の作品が展示されるようです(上記ページに主な作品の展示期間が示されています)
「江戸時代の代表的な都市は」と問えば、誰もが江戸と京都をあげるでしょう。この大都市を比較すれば、どのような特徴があげられるでしょうか。そして、東アジアのなかで見た時にどのようなことが考えられるでしょうか。
アジアには都城制とよばれる伝統的な都市づくりがありました。回廊で囲まれた宮殿を中心に、東西の道を敷設し、周囲に城壁をめぐらす都市です。江戸そして京都はこのアジアの都市設計と関連をもっていました。本展は江戸そして京都の都市設計を鍵にして、アジアそして世界を意識した視点でみつめ、江戸時代の都市を考える展覧会です。
ポスター
1章 世界の都市
江戸時代は世界の都市をどのように意識していたのでしょうか。日本で制作された世界の様子を描いた絵画として、屏風に仕立てられた絵画などでその認識を知ることができます。また、当時に制作された日本列島を描いた地図は、日本が世界からどのように認識されていたかも示しています。絵画作品には江戸時代の日本や世界の都市の姿があらわされています。
第1章では、都市について海外からもたらされた知識、また海外へ発信した情報を展示します。
- 日本から見た世界、世界から見た日本、それぞれが当時どのようにとらえられていたか?=何が見えていて、何が見えていなかったか?
- 地図それぞれに描かれた大陸の形、海の広さ、縮尺の取られかたをよく見ると、これらがよくわかる
重要文化財「十二都市図世界図屏風」17世紀初頭
- 大陸に赤を使うなど、今ではあまり無い色の使い方。限られた色から、四色問題的な塗り分けでうまいこと表現されている
- 内覧会では計2回、こんな雰囲気で説明が行われた
「世界万国全図説」江戸時代後期
- 大陸の形はけっこう粗いけれど、帆船の描写はとても正確。目に見えるものはしっかり再現されている
「坤輿(こんよ)万国全図」江戸時代
- 歴史の教科書にも出てくる有名作品。実物を目の前で見たのは初めて
- 大判の地図に緻密な情報。時代を考えると、大陸の形や縮尺もかなり正確
- 当時でも相当高価だったはずで、日本でもどの程度の人々がこれを知っていたのかはよくわからない。Googleマップなき時代の嗜好品という側面も、もしかしたらあったのかも
「地球万国山海輿地全図説」1785年
- 南極大陸の広大さ。アメリカ大陸の描かれ方。その他の大陸に比べるとかなり粗い
- 南極は、「地球が丸い」という常識がまだない時代であれば、「アフリカ大陸、オセアニア大陸、南アメリカ大陸、どこから南に下っても、雪で覆われたなんだか広大な大陸がある」という観測から、こんな表現になるのはむしろ自然かも
- 時代を考えると、まだ天動説優位な地域もあったはず。地理における当時の常識がどんなものであったか。どこまでわかっていたか。描かれた国や時代によってけっこう異なっていたんだな、というのがよくわかる
「新訂万国全図」1810年
- ほぼ現在の地図と同じように見える。日本が中心に描かれ「東半球」「西半球」という表現がある
- こう見ると、単に「西洋」と呼ぶときは、ヨーロッパを指していたのだろう、というのがよくわかる
「日本図」1595年
- 北海道がない、、それ以外は、時代を考えればいい線いってる。1595年、日本は関ヶ原の戦いの少し前
2章 洛中への系譜~都市の中心と周辺~
アジアの都市は中国の都市づくりの影響を受けています。例えば、北京やソウルです。日本では平城京や平安京が著名です。碁盤の目の京都は明らかにその系譜をひいています。その歴史的な経緯から、江戸時代においても京都は国内の他の都市と趣が異なっていました。中心には回廊で囲まれた広場と建物側面の直線部分を正面とした平入りの宮殿が建てられました。そして宮殿の周囲には条坊とよばれる縦横に道が廻らされました。宮殿と条坊の組み合わせは、アジアの各都市でも、いつの時代にも見ることができた共通事項です。
展示作品を通して、京都はアジアの都市づくりが直接に影響を与えた都市であることを確認していきます。
「北京全図」1903年(清の時代)
「平安城左右京職九条坊保図」1707年
「洛中洛外町町々小名 大成京細見絵図」1866年
「賢聖障子 賢聖像」1789-1801年
3章 将軍の都市~霊廟と東照宮~
大都市江戸を考える上で、徳川秀忠そして家光が行った拡張工事は大きな画期でした。都市の中心には堀や石垣を普請し、御殿や天守を建てました。武家による都市づくりの特徴です。
しかし、都市江戸にもアジアの都市に共通する側面があります。江戸は都市を取り囲む堀を構えました。また、『周礼』考工記は祖先や神を祀ることを記載していました。江戸では東照宮や霊廟など徳川家にかかわる神社や墓域を造営しており、両者はアジアで展開した都市づくりの系譜のなかで捉えることができます。
他方、江戸がアジアの都市づくりと大きく異なる点もあります。中心に伝統的な宮殿を設けず、城館を据えた点です。京都とは異なり、武家の本拠となった城館は武威を表現することによって、自らの身分を表現していました。
本章では都市江戸のなかにアジアの都市と共通する点と異なった側面を紹介します。
秀忠と家光の時代、大都市江戸の街作りという視点から
「擬宝珠」1658-1659年
「1657年3月4日火事にあった江戸市街の図」1657頃
- わりと唐突に、透視図法の絵が見られる。これまで平面図ばかりだったので新鮮な感じ
重要文化財「旧江戸城写真ガラス原板」1871年
- これは貴重。いわゆるネガの形で当時そのままの姿が映し出されている。絵画や図面ではない生々しさがある
「江戸城御本丸惣地絵図」1860年
- 圧巻。高さ3.7m、幅4m超。
「武家諸法度」1635年
「台徳院銅製燈籠」1632年
「紅葉山東照宮御簾 付由緒書」1736年以前
- 展示の中では目玉、フルコース料理でいうメインディッシュ
- 正直あまりインパクトを感じなかった(地図とか、この後の甲冑のほうがテンション上がった)
「切付盛上札啄木紺糸威二枚胴具足」など 江戸時代後期
- 徳川家由来、全国各地からの甲冑x5
- 扇状に、まさにこれからの戦に備える感じで鎮座する
- ただ、せっかくの漆黒の演出も、後ろに映りこんだ展示の照明が重なってしまって惜しい。まあ、撮影禁止なので、そこまで考慮せずだったのかもしれない
エピローグ ~都市図屏風~
大判の城下図屏風たちが展示会出口の両翼を固める
「高松城下図屏風」17世紀
「宇和島城下絵図屏風」17世紀末から18世紀初頭
- 「謝辞」をきちんと展示している展示会はあまり?見ない(いや、普段あまり気づいてないだけかも)
- ショップでとどめの古地図販売
- 図録や書籍、お菓子やギフトカードなど"通常品"ももちろんありました