落語家はなぜ噺を忘れないのか
「」の使い方がうまくて読みやすい。おそらく意識してか、短い文章が多く、「」がない部分でもなんとなく落語を聴いている感じでさらさらと読める。噺全体のわかりやすさにとにかくこだわって、かつやっぱりウケたい、と修業を続けた経緯が語られる。
- 作者: 柳家花緑
- 出版社/メーカー: 角川SSコミュニケーションズ
- 発売日: 2008/11
- メディア: 新書
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「古典落語でも、江戸時代に聴いていた人にとっては現代噺」という解釈で、自分なりの脚色を入れていく。それがウケたウケないで入れ方を変えていく。迷ったときや間違ったとき、師匠や先輩の名前が出てきて、考え方の修正が入る。身近な祖父の五代目柳家小さん、叔父の六代目小さんから、立川志らく、柳家小三治などの名前がよく出てくる。独学の部分も多いのだろうけれど、やっぱり伝承芸なんだなと感じる部分。
タイトルへの答えは46ページにあって、どんな芸術であってもそうなんだろうなと思う。ちょっと溜飲を下げるまではいかなかった。その代わりといってはなんだけれど、
- ネタのレパートリーは一覧できるけれど、その中でも得意なものは実は限られている、
という独白や、
- 95ページの「噺のジャンル分け表」は新鮮でおもしろかった。
- 主人公でくくるか(若旦那もの、粗忽もの、女性もの、動物ものなど)
- 舞台設定でくくるか(長屋もの、旅噺など)
- 見せ場があるものか(「時そば」のすする音、「寿限無」の長い早口言葉)
落語を生で聴いたことはなく、テレビで流れていても全部を聴き通すことはあんまりない、という程度だけれど、それでも「枕から噺の本筋に入る瞬間」はけっこう好きで見入ってしまう。次に落語を見かけたときの視点がけっこう増えたかもしれない。