日本橋をてくてく歩く
江戸時代に架けられた「日本橋」の今と昔 ~ 日本の中心・日本橋の、江戸時代から現代までの移り変わりを辿って
という、「東京てくてく」さんが主催する街歩きイベントに参加した。日本橋の周りはわりと近所で、普通に歩くことも多いのだけれど、そういえば歴史は知らないな〜というのがきっかけだった。「日本橋は国道の起点」となれば、物証や物語をあたれば尽きることがない。そのはずなのだけれど、そんなことを意識しない普段の生活では、やっぱりそれらに触れることもないまま、という少し損した状態だったのは確か。
期待していた通り、橋の周辺ポイント(なかなか渋いセレクション)をのんびり回りつつ、最後は日本橋で締める2時間だった。ガイドさんが語る内容をあらためて思い出してみると、当時の"生活"が想像できる内容が多かった。たとえば、「一石橋」は、当時の住民の生活の上でどんな橋だったのか?これに参加しなければ、極端に言えばおそらくずっと知ることはなかったと思う。
街はどんどん進化していくのが自然だけれど、「これは残しておかないといけないな」と思わせる歴史の数がとても多い。今回巡った他にもあるだろし、この辺りは横浜とも少し違う歴史の重みを何となく感じた。
あとは写真を
- 「北町奉行所跡」金さんこと遠山金四郎でおなじみ(?)
- 東京駅八重洲北口付近、大丸東京店の"裏手"、ビル出入り口そばに埋め込まれた石碑。といってもどこが裏なのか、場所が何とも分かりづらく、言われないとまず通り過ぎる位置
- 八重洲北口を出て左、すぐ左の丸の内トラストタワーへ壁伝いに歩き、左側に最初に見えるビル出入り口(だったと思う)
- その出入り口付近から北側を眺める
- トラストタワー沿いに少し歩いた位置に説明書き
- マンション建設前によく行われる遺跡調査、この一帯はもう「掘れば何か出る」ことは確実で、設計段階で、何をどれだけどうやって残すか(全部は残せないので、一部だけ復元とか)も含めて設計が行われるのだろう
- 江戸城外堀の石垣
- どうやら、石垣自体は都内各地に修復、再構築されていて、皇居そばには清水建設の本気の仕事の成果があるようだ。近所寄ったら見てみよう
- 矢穴を再現
- 「呉服橋は現存しません、この"呉服橋交差点"のあたりです」
- ‥と、近辺の古地図を見ながら説明を聴く。地図見ながらというのは、今思えば、堀の川が当時はどう流れていたか?の予想もあったりで、歩き飽きない方法としてかなりよかった気がする
- 一石橋
- 右側面「しらする方」左側面「たづぬる方」が張り紙を出す、迷子探しのための街中掲示板
- 便利な場所となれば、禁止されなければ、売ります買います系の張り紙も出たはずで、今で言うcraigslistのような、ソーシャルなメディアになっていたものと予想
- 写真下部、横一文字に三本足がついたような記号、「これ、じつは測量の水準点なんです」しぶい
- 日本橋側から北、三越側を眺めつつ東へ
- 三浦按針屋敷跡
- 日本に来たいきさつ、家康の重用、その後の没落を、本人の横にいるように滑らかに語るガイドさんが印象的
- 話す内容はほぼ憶えておられたようだ。約2時間、屋外を歩きながらのプレゼン(しかも不意に質問する僕のような同行者もいながら)と考えれば、なかなか大変な仕事
- 名水白木屋の井戸の石碑。その名残からか、ちゃんと水場を置いている
- 日本橋西川
- 老舗ではあるけれど、時代のニーズに合わせたまくら開発など
- ロボットレストラン。当然日本橋とは関係なく、たまたま見かけましたというボーナスステージ的な扱い
日本橋
- 「日本橋には獅子が何匹いると思いますか?」16匹くらいか、と思ったら答えは32匹
- こういう場所にもいた(写真左下)これはわからない、、
- これはよく見かける、道路元標のレプリカ
- ガイドさんは「東海道を歩き通した」経験の持ち主
- 休日だけ型(平日は仕事して、休日は到達地点まで移動して再開)、通し型(ひたすら連日歩く)とおられるらしい
- 麒麟の像
- 「これは何本の足に支えられているでしょうか?」聞かれるくらいだから4本ではないと思いつつ、、
- 「実は2本なんです」(隠れているけど、たしかにつながっているのは2カ所だけだった)これも気づかない、、耐震対策とのこと